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教会の沿革 ―― 130年のあゆみ

 

 伝道開始 ……… 1886年7月11日

 伝道所建設 …… 1892年7月11日

 教会建設 ………  1926年7月11日

 

#日本キリスト教会#室蘭教会
第一次会堂

 

 室蘭の地に初めてキリスト教の伝道がなされたのは、1886 年の夏であった。当時の室蘭は戸数わずか200 戸,人口1,000 名に満たない一漁村にすぎなかったが、しかし札幌への交通の要衝でもあった。 時の室蘭郡長であった田村顕充(たむらあきみつ)が、東北学院長押川方義(おしかわまさよし)をこの地に招いて伝道を開始し、郡役所の官吏や医師たち30 名がキリスト者となり、初期の教会を形成した。

 初代牧師は北山初太郎牧師である。1897年には、信徒30 余名の献金によって、第一次教会堂の建設がなされた(現在地)。北山牧師に替わって1921年に着任した竹内浩牧師が、教会の基礎を固め、独立教会のために尽力した(在任期間31年4カ月)。その間、教会の育成に援助を惜しまなかった人物に、米国長老教会宣教師G.P.ピアソン夫妻、レーク夫妻、北星学園長サラ・スミスたちがいる。

#日本キリスト教会#室蘭教会
第二次会堂

  1922年に、第二次の教会堂を建設した。教会堂の建設にあたっては、第一次、第二次ともにサラ・スミス北星女学校校長、ピアソン宣教師の多くの助力があった・しかし、この時代はまさに日本が戦争へと向かう時と重なり、伝道牧会は困難を極めた。信徒も減少し、教会財政も厳しく、牧師の大会への参加も取りやめざるをえない年も幾度かあった。特に日本が1941年、太平洋戦争に突入してから1945年の敗戦に至る時期は、教会の受難の時であった。1944年には、教会堂を警防団の本部にあてるため、当局より半ば強制的に明け渡しを求められたが、会堂は数年前に設置した、教会附属みくに幼稚園園児60名の大事な保育の場であることを、竹内浩牧師、長老たちが警察署長に必死に訴え、教会堂の接収を防ぐことができた。

 1953年に三好新蔵牧師が着任した。幼稚園教育、日曜学校、青年層への伝道に力を注ぎ、市内の各地に日曜、土曜学校を開設、また青年会による家庭集会や、地区家庭会も積極的に行った。1961年から一年間、三好新蔵牧師の留学中は、井上一央伝道師が牧会の任にあたった。1964年、佐々木俊雄牧師が着任。1969年には靖国神社国家護持法案反対のため、市内の諸教会とともに街頭デモ、断食抗議に多くの教会員が参加した。爾来、教会は靖国神社問題を自らの信仰告白の問題としてとらえ着実に学びと活動を続けている。

#日本キリスト教会#室蘭教会
現在の会堂

 

1971 年、第三次の教会堂建築(現教会)を建設した。 室蘭教会伝道開始90 年を迎えた1976年に、記念事業として、パイプオルガンを設置した。また、1970年頃から白鳥台地区開拓伝道を開始し、1980年、同地に集会所(白鳥台伝道所)を新築、牧師・長老による夕礼拝、日曜学校、教会員による幼稚園を行い大きな実りを与えられた(2000年に集会所[伝道所]閉鎖)。

 1986年、宣教開始100周年記念礼拝を行い、宣教の第二世紀に向けて歩み出した。1995年に中家盾伝道師着任(1997年牧師となる)。

 1941年設立された「教会附属みくに幼稚園」は、2006 年、多くの人々に惜しまれつつ閉園した。65年間にわたる幼児教育において多数の卒園生を社会に送りだした。卒園生たちは、現在も室蘭市内外で活躍している。 20065月後藤憲正牧師着任。2012年田中忠良牧師着任。

 

 現牧師は西村ひかり牧師である。20194月に着任、牧会にあたっている。

 

 

 刊行物

 

『日本キリスト教会室蘭教会70年史』1961

『日本キリスト教会室蘭教会80年のあゆみ』1971

『日本キリスト教会室蘭教会100年史』1992

『日本キリスト教会室蘭教会130年史』2019

 

 


室蘭教会創立メンバーのひとり

 

赤城信一

 


一、はじめに

 

 

 本小文は『室蘭地方史研究』に、昭和五十四〔一九七九〕年より五十八〔一九八三〕年にわたって、「赤城信一―目鼻のない肖像」として連載した文章を骨子としている

 

 簡単な解説をすると、赤城信一は会津生まれの医師で、鳥羽伏見の戦、会津の戦に参加して敗れ、榎本武揚の軍に従って北海道に渡り、函館戦争で三度敗れ、幽囚後許されて開拓使に出仕して室蘭病院長となった。

 

 のち、伊達、札幌で開業、明治二十九〔一八九六〕年五十七歳で札幌で死亡する。

 

 札幌では、北海道医師会の前身とも言うべき医事講談会の副会頭、同会誌の編輯者として指導的立場にあった。

 

 また草創期にあった北海道キリスト教(新教)にあって、室蘭、伊達、札幌教会の長老として献身的に伝道に当った。

 

 登別を開拓した白石の片倉家とは、娘竹子が片倉景光に嫁して入植者の精神的支柱となっており、一方伊達とは、室蘭郡長であった元亘理藩家老田村顕允と、キリスト教同信の友で郡長と病院長との関係でもある。 

 

 



 

二、赤城の家系

 

 

 会津塩川在住の赤城英夫氏所蔵の系図によれば、祖先は藤原顕清で攝州阿部を領し、建武中興では北畠顕家と戦ったとあり、のち上野国赤城の城主として詮頼の時から赤城氏を名乗り、更に会津に下って伊達家に仕えた。

 

 赤城家が医家になったのは会津塩川に住むようになってからで、「保秀はじめて医業をなす」と系譜にある。医家の四代目泰和(求碩)は御合力医師で、米二十俵を取り、北部の医師の長であった。

 

(会津藩医学史並びに明治以前の医学史)

 

 「泰和には世嗣となる男子がなく、猪苗代の医師の男子を養子として娘にめあわせるつもりだった。然しその後昌英と泰舒が生まれた。母の話を綜合すると、信一は長崎で専心医学を修め、義妹には冷淡であったらしい。勝海舟が『氷川清話』に会津の医者赤城氏から辞書を借りた事を記しているが、これは信一だったと思われますが、母は父の昌英だったかも知れないと言った事がある。酒を飲むと勝、勝とよく言ったから」

 

 信一は阿部家から赤城家に養子に入り、文久二(一八六二)年に広瀬きさと結婚している。長女タケ(竹子)は片倉景光と結婚、男子の麟は早世して赤城信一の家系は消滅し、赤城家は実子の昌英の子孫がつぐ。

 

 

 

 昌英の履歴が薄書に残っている。

 

 開拓使御用掛准判任官 函館病院在勤

 

 福島県岩代国第十三区耶麻郡塩川村七番地

 

                                  士族赤城求碩長男 赤城昌英

 

                                  安政二年乙卯三月生

 

                                    実名 泰安

 

 明治十〔一八七七〕年九月二十九日開拓使傭拝命

 

  月俸金八円被下

 

 同十一年五月二十七日開拓使御用掛拝命

 

 准判任官

 

  月俸金十二円被下

 

兄信一がいるに拘らず、求碩長男と届け出ている。赤城昌英は、エルドリッチの創立した函館医学校に修学し、当時函館に住んでいた。

 

 昌英をついだ赤城久麿は、風間久衛の二男で昌英の娘ヤイの婿養子で三等軍医である。久麿の長男春雄は医師であったが三十三歳で死去、英夫は会津女学校の英語教師で、退職後は幼稚園を経営しておられた。

 

 赤城英夫氏は東北学院出身のクリスチャンで、信一がのちの東北学院長押川方義の洗礼を受けており、英夫氏が見えない手に引かれる様に東北学院に進んだのも不思議な因縁かと思われる。

 

 信一の生家阿部家は、会津猪苗代の儒医とされるが、日新館に軍事病院を開設した時の医師の調査では、六十八名の中に阿部氏の名はない。町医の爲名がのらなかったのか、或は昌一以下の時代に医業を廃したものか。

 

 

 

 

三、修業時代

 

 

 関場不二彦の「赤城小橋先生遺稿に就て」(信一の自伝が含まれているので、以下自伝と略す)では、幼名を左司馬、長じて原理と言い、更に字を実夫と言ったとあるが、何歳から改名、或は使用したか明らかでない。埴峰、小橋などとも号し、後日医事講談会雑誌では、塘学人、西迂夫、竹庵閑人、篁堂の名も使ったとされるが、どの様に使いわけたかも確かではない。

 

 幼少時については伝わる所がなく、十六歳から𠮷村二州について医を学んだ。

 

 会津藩の医育は、文化元(一八〇四)年に完成した文武の学寮「日新館」の北に医学寮を設けて系統立てたが、生徒は士分のみ入学せしめ、町医師の入学は不可能であったと言われる。

 

 信一の師𠮷村二州は、『日新館志』三十巻を著述した𠮷村寛泰の弟、医学寮の都講で、漢医法のほか長崎で蘭医学を学び、其講説本は『東西対法』と称したものとされる。(西医学東漸史話余譚)

 

 自伝はこの後「弱冠にして東都に遊学し、織田研斎、伊東貫斎等諸名門に出入す。たまたま東都虎列刺病大流行、藩命により邸内を治療、医師假雇勤となり、俸三口を賜わる」と誌している。

 

 コレラの第二回流行は安政五(一八五八)年であり、支那からアメリカ船ミシシッピー号を介して長崎に伝わったとされ、特に江戸で甚しく、江戸のみで二万八千四百人余の死者があったと言う。彼が江戸に出たのはこの年で十九歳の時であった。

 

 付言すると、北海道ではコレラは明治十〔一八七七〕年の西南の役に出征した屯田兵の帰還によって始まったとされ、西郷が死して鬼となってたたると、「西郷病」と言って恐れられたと伝える。室蘭地方で大流行がなかったのは、或は赤城信一が江戸で得た経験もあずかっていたものであろうか。

 

 さて、東都における師織田研斎は、武州多麻郡府中祠官織田筑後の二男で、伊東寛斎の実兄でのち江戸蘭学所講師。伊東寛斎に就ては多言を要しないであろうが、但し正規の門弟とは認められなかったのか、象先堂門人姓名録には名を連ねていない。

 

 自伝は更に続けて、「居ること半年、勢漸くへ減ず。辞職して伊東氏に客となる。予資性疎放不羈、屡々有司之忌諱に触れ、学業未だ央にして会津に帰る。是より漸く旧故に面し、風流に託して猪苗代湖畔に廬を結び、魚を釣りわずかに口に糊す。壬戊十月娶室広瀬氏、時に年二十四也」と述べる。

 

 広瀬キサは、猪苗代町の広瀬徳右衛門の長女で、生活は苦しくても平穏な日々であったであろう。

 

 

 

 

四、戊辰の役

 

 

 「丙寅二月、本藩医生二人をして長崎に学ばしむ。予と大島某その選に当る。五人俸を賜わり、旅資並びに束脩月謝等を別に給され、上りて京師に達す」

 

 丙寅は慶応二(一八六六)年、信一は二十七歳成すあらん事を期したが、時あたかも幕末、時代は信一を長崎まで届けなかった。

 

 戊辰の役にいたる過程においては、大政奉還、全く異例の討幕の密書、薩藩による江戸焼うちなど、京都守護に当っていた会津としては腹の立つ事ばかりであったであろう。

 

 自伝は、「命あり京師に留まる。是より前京畿形勢日にせまり本年に至り騒擾尤も甚だし。丁卯十二月九日の変、軍に従い大阪に下る。戊辰伏見の戦、利あらず東都に走る」と書いている。

 

 丁卯(慶応三年、一八六七年)の変は王政復古の大号令をさし、一旦下阪した会津軍は、薩摩問責として再び京に向かい、鳥羽、伏見で戦が始まる。この戦における会津兵は四隊と大砲隊二隊で、このうち白井五郎太夫の大砲隊は百三十一名、隊附医官が赤城信一であった。

 

 戦敗れた信一は、「会津に帰る、たまたま松本順翁其徒弟十余人を率いて来る。是より翁に従って創痍治療に服す。八月二十三日官軍城下に入る。病院を塩川、北方等各所に移す。九月四日病者を率いて米沢に送るの命あり、即ち国境に至るも入るを許さず、帰りて大塩の駅に宿す。大鳥圭介、古屋作左エ門等諸将校その軍を挙げて来り道を要す。問う所に曰く、猪苗代より若松を衝かんと欲すと。余当時自ら謂う、彼の逃辞のみと。百事茲に至る。施すべき策なし。すなわち兵卒をして病者を負わしめ、遂に福島を過ぎ、行きて仙台に至り、これを伊達某氏の邸に託す」

 

 この戦いにおける官軍側の奥羽出張病院は、はじめ平潟ついで平に設けられ、責任者関寛斎の克明な治療日記が残されている。

 

 会津側では松本良順が南部精一等を引率して会津に入り、日新館を根拠として治療に当たるとともに、戦傷病者の救急治療法を連日講義したとの事で、当然赤城信一もこの講義を受けた事であろう。

 

 九月四日、傷病兵約三十名を米沢に移す事を命ぜられるが、米沢藩は態度を一変して入国を許さず、やむなく福島を通って仙台に達し、伊達家に病者を託した。この時別れに当って、赤城を慕って泣かぬ者はなかったと言う。現在の戦争とは異なり、敗軍となれば皆殺しとなるのが当時のならい、沈着冷静に行動した赤城の豪気が光っている。

 

 

 

 

五、函館戦争

 

 

 旧幕府海軍を率いた榎本武揚は会津の降伏を見届けて、幕軍脱走兵、東北諸藩の抗戦論者残党をも引き受け東名浜を出帆した。赤城信一の乗り組んだ長鯨は輸送艦で、米国製の外輸船で約千トン、品川脱走時には彰義隊などを、松島からは衝鉾隊を乗船させた。

 

 自伝に戻ると、「海軍に投じ、長鯨艦に乗る。鷲木浜に達し上陸し、海に沿い南行、川汲嶺を越え五稜郭に入る。小憩之後発し、程なく福山城に着す。江差に到り、函館に帰る。此日蝦夷全島鎭定、各国軍艦賀旗を挙げ、祝砲一百を発し挙軍万歳を唱う。爾後軍隊を辞し函館病院事務に当る」

 

 以上で自伝は終り、この後は関場博士の紹介文と関連文書よりの引用のみとなる。全島を平定した榎本武揚は、事実上の政府として諸国に中立を求め、選挙政権を樹立する。また医療に関しては箱館医学所を接収して中核としたが、「函館脱走陸海軍惣人名」から医師を拾ってみても、赤城信一は事務方と見られていたのか、その名がない。

 

 箱館医学所は高松凌雲が頭取となって箱館病院と称し、二階建病室二棟を新築したが、戦傷病者の増加に伴って高竜寺を分院とし、赤城信一、伊東友賢、木下晦蔵等を担当とした。

 

 函館戦争中の状況を、高松凌雲が函館毎日新聞に連載した「東走始末」や、船山馨の『蘆火野』などから抄出してみると……

 

 「(本院では)病内を医師と傷病者のみで篭っていると十一日十時頃官軍が殺到して来た。抜劍して凌雲を囲んだので、自分は医師でありこゝに居る者は交戦して負傷した者である。今は病褥にあって起居も自由にならない。恢復後は如何なる厳刑に処されても遺憾はないが、それ迄は助命して貰いたい。自分等はこの事を申し述べる為に、諸君の来るのを待っていたのであると陳弁した」

 

 幸に薩州隊に人物がおり、箱館病院本院では流血の惨を見ずに収束する事が出来た。

 

 しかし高竜寺分院は、松前、津軽の兵の襲うところとなり、病院掛木下晦蔵は斬殺、赤城信一は銃でなぐられ意識を失って捕縛、伊東友賢も肩を切られ重傷、病者十数名は殺され、建物は火を放たれた。

 

 戦終って、重病人八十一人を選んで江戸に送る事になり、高松凌雲、赤城信一、伊東友賢等と、官軍からの同乗者が附き添って江戸へ向かった。

 

 凌雲、信一等が箱館病院に拠ってから、明治二〔一八六九〕年八月までの治療者総数は一千三百四十人を数えたと言う。

 

 

 

 

六、開拓使出仕

 

 

 赤城信一は戦後久留米に幽囚されたが、のちに許されて開拓使に出仕する。

 

 

 

                              元村岡県管轄

 

                              医生 朝倉恭三

 

                              浅草第六裏門通り高松凌雲同居

 

                              医生 赤城信一

 

  右者此度東京艦を以多人数御差遺相成候間右両人爲附添、北海道へ御差遣シ相成候様致度、依御用掛被

 

  仰付、月給五十両被下度、此段奉伺候也

 

  申二月十九日

 

 

 

 函館での上司高松凌雲方同居となっているほか、この時に六角謙三の採用方も信一の名前で申し入れている。東京丸は尻岸内で沈没するのだが、信一は献身的に働いたとして、一万匹の賞金を受けている。

 

 明治六〔一八七三〕年十二月には開拓使十一等出仕、明治十〔一八七七〕年三月には准判任官で月俸金三十円、十二〔一八七九〕年十一月には月俸三十五円となっている。

 

 新開地北海道の開拓に取りくんだ明治政府は、お雇い外国人達の意見もあり、函館―森―室蘭―札幌間の道路開設に乗り出す。開拓次官であった黒田清隆は、新道建設掛を設けて、大主典以下の官吏二百余人をそれぞれの部署に配し、取締所、休泊所、病院、派出所などが設けられた。

 

 

 

 新道建築仮病院之事

 

 一、仮病院ハ函館、砂原、室蘭、山道之四ヶ所ェ可取建事

 

   但シ函館ヨリ砂原、々々ヨリ室蘭ト建築場所之遠近ニヨリ順ヲ追テ相移シ可申事

 

 一、新道建築場所ヘハ、医員ハ三人宛無怠出張、適宜之場所見斗診察所ヲ可設事

 

 一、諸官員出張先ニ於テ病患之節ハ、出張ノ医師診察之上、軽者ハ其場所ニ於テ治療ヲ加ヘベシ、重者ハ

 

   右四ヶ所之病院ニ送リ療養可致事

 

   但シ其路費等ハ、一切其者ヨリ可相払事

 

 一、諸官員病院ニテ治療ヲ乞フ者ハ、相当之薬科病院ヘ相納メ可申、入院之治療ヲウクル者ハ、一日金百

 

   疋宛可相納事

 

 一、諸職人共病気之節ハ、其長ヘ相届診察ヲ乞ベシ、出張之医員之ヲ診シ、病症ノ軽重ニヨリ前同断取扱可

 

  申事

 

  但シ、諸職人入院治療ヲ受ル者ハ、其宛行之内ヨリ相当ノ薬科ヲ差引キ、繰入方ヨリ相納メ可申事

 

 一、諸職人御用働等ニテ怪我致シ、或ハ不時之疾病ニ罹リ候者、事実取糺シ官費ヲ以テ治療ヲ施スヘキ事

 

   右条々可然哉 相伺候也 建築掛

 

 

 

 色々な資料から考察すると、赤城信一は函館にあって、函館―室蘭間の新道建築方病院の実務を総括していたものと考えられる。

 

 明治五〔一八七二〕年三月より六〔一八七三〕年七月までの、函館、峠下、桔梗野、森村、旧室蘭、室蘭、鷲別、幌別、登別、白老、苫小牧、島松、輪厚、札幌の十四ヶ所の患者は、入院三百八十五人、外来二百六十四人、死亡四十三人、全癒二百三十人であった。

 

 

 

 

七、室蘭病院勤務

 

 

 開拓使事業報告によれば室蘭病院は、

 

 

 

 明治六〔一八七三〕年三月室蘭郡室蘭村ニ設置ス

 

 明治六〔一八七三〕年六月新室蘭ニ移転、室蘭病院ト称シ入院ヲ許ス

 

 当初赤城信一は室蘭病院医員として、室蘭港西小路町に住んだ。

 

 

 

 室蘭病院の守備範囲は、幌別、登別から、伊達、有珠、虻田まで及んでおり、明治七〔一八七四〕年十二月から八〔一八七五〕年七月までの間に、赤城信一が九回、医員杉山確が七回往診に出ている。行先は幌別村六、千舞別村四、鷲別村二、元室蘭村二、紋別村一、有珠虻田村両郡一の計十六回で、診察人員は三十六名と、有珠、虻田の間歇熱多数である。

 

 明治八〔一八七五〕年の室蘭病院の患者は、入院男子四、女子一、外来男子六百六十、女子三百五十人、収入二百九十七円余、支出一千百八十六円余、支出超過八百八十九円余である。

 

 ちなみに薬価について見ると、水薬一日五銭、散薬三銭三厘、泡薬三銭三厘、丸薬三銭三厘、眼薬一銭七厘、膏薬一銭七厘、外布薬六銭三厘であった。

 

 間歇熱(虐疾、瘧)についてもふれておきたい。

 

 北海道衛生誌はマラリヤについて、「本病は古く本道各地に発生しアイヌの常に本病に浸されつゝありしはアイヌ語中本病に該当する語あるによりて之を知り得れるべし。本病の記録に存するものは少なく只だ『明治五〔一八七二〕年夏胆振国有珠郡紋鼈村虐疾行ハル、六〔一八七三〕年夏益甚ダシ、官医ヲ遣リ薬ヲ給ス』の記事あるのみ、虐は即ち本病にして開拓の最初にありて何れの地方も本病に浸されざるなきがご如し」と記載されている。

 

 明治八〔一八七五〕年の薄書に左の件がある。

 

 有珠、虻田両郡間歇病流行今以更ニ相減シ不行六月以来昨二日ニ至リ患者六百六十一人現ニ一昨日ハ有珠村土人四十余名御施薬願出候以来難病者ヲ除キ右ニテ千三百二十名ニ相充実ニ民間ノ苦痛不容易殊ニ耕耘緊急之折柄戸外床ニテハ迚モ出張事手廻リ兼秋獲相減候ハ必然ノ儀ニ有之派出病院詰高橋玄寿尽手奔走治療罷在候得共再患三患之者少カラス生己ノ攝成不行届ニテナラス機那塩拂底ニ付截虐後保護ノ薬剤十分相投シ兼遺憾ニ被存候儀モ有之由ニ付機那塩多分御差廻シ相成候様本院ヘ御懸合相成度尚亦赤城信一出張巡回玄寿ト協議之上篤ク治術行届候様仕度玄寿ヘモ高禄之上此段及御懸合候也

 

 

 

 

八、その生活と身辺

 

 

 雑多であった各種医師の整理は、漸次官立医学校卒業者と、医師開業試験合格者に統合されてゆく。この中にあって、明治十〔一八七七〕年の内務省達に、「医術ヲ以テ奉職スル者ハ試験ヲ須ヒス免状交付」とあり、この例外規定に陸海軍軍医などのほか、「開拓使病院医員」が含まれている。

 

 

 

 開業免状御下渡願

 

 私儀明治五年以来開拓使病院ニ奉職医療ニ従事仕居候処昨年八月御省第七十六号御達書ノ趣モ有之、開業志願ニ付免状御渡被下度別紙履歴書相添此段奉願候也

 

                                  開拓使御用掛准判任官

 

                                        赤城信一

 

                                 明治十一年一月二十三日

 

 内務卿大久保利通殿

 

 

 

 これに対し免状が下附され、受領書が出されている。

 

 同じ明治十一〔一八七八〕年には長男麟が生まれ、明治十三〔一八八〇〕年には長女タケが片倉景光と結婚する。「白石藩主は北海道幌別郡支配を命ぜられて、家臣百五十名を移住させ、第二次移住者は札幌附近の白石村と手稲村に百四十七戸凡そ六百名を移して開拓に従事した。十二代藩主は白石村長となり、十三代景光はなお若く幌別村に住した。赤城信一のに下にも出入したか家人の話題にもなり、十八歳に成長した竹子は、この様に頼もしい青年と苦労を共にしたいと両親に願って進んで嫁した。(中略)

 

 (景光は)明治三十一〔一八九八〕年開拓の功労を嘉せられて華族に列せられたが、これは竹子の内助の功なくては、到底その栄誉は叶えられなかったのである。晩年は郷里白石に帰り、景光の死後は十四代健の実家、伊達子爵家に入って幼君の養育に任じ、六十五歳をもって伊達家で没した。

 

 赤城家には嗣子早世して男子なく、竹子の孫信光を以て嗣とすべく、信一の一字を附けて信光と命名したが、片倉の長男早世して信光が嗣いでいる(後略)」(会津と私 片倉信光)

 

 竹子と景光の結婚の因縁、赤城信一家の断絶と片倉家との関係を説明している。

 

 この当時の生活を、景光と竹子の娘達―信一には孫に当る―は、信一が毎日のようにハモ釣に出かけたこと、ふきから味噌を作ったこと、その味噌樽を風呂桶として、明治十四〔一八八一〕年明治天皇行幸に同行した有栖川の宮が入浴したことなどを語っている。

 

 

 

 

九、公立室蘭病院長

 

 

 開拓使は明治十〔一八七七〕年から地方の官立病院を統廃合していったが、これに伴って多くの公立病院が設立された。この経営には出港税から三年間千五百円づゝ補助、旧病舎と器械類は貸与、医員の月給は当分官費、事務取扱者と小使は地元負担、薬価は一年分は官与し五ヶ年年賦で返済させることとした。

 

 この時点では赤城信一は、公立病院長として町当事者と談合している。

 

 

 

 明治十一〔一八七八〕年八月二十四日病院之名ニ付申渡区長戸長総代より左之通

 

 病院一ヶ年出納凡積

 

 一、金四百八十円 医員二人分一ヶ月四十円

 

 一、金六十円 小使一ヶ年給 但一ヶ月五円

 

 一、金七十二円 院中一ヶ年諸費 但一ヶ月六円

 

 一、金二十円 病院修繕費

 

 一、金八十四円 但薬価一ヶ年分純益金

 

 

 

 時が進み、明治十七〔一八八四〕年には公立病院長赤城信一と雇継契約をするが、その文言の中に、辞令受領より二ヶ年間は在職すべき旨が明示されている。

 

 この事にこだわるのは、室蘭市史をはじめとする資料の中で、信一の退職時期が、早いものは明治十七〔一八八四〕年、遅いものは明治二十二〔一八八九〕年とある為で、何れも誤りである。

 

 医師としての力量を示す診断書を、掲載してみる。

 

 

 

 病者診察候届

 

 当郡室蘭村旧土人東沢伊九郎孫男東沢健冶天然痘類似ノ症ヲ発候旨同所戸長泉麟太郎ヨリ急報有之不取敢出張診察候処右ハ四年前種痘ヲ施シ左右ニ壱痘ハ顆ヲ発ス、自来疾病ニ罹リシコトナシト云フ四月二十八日頃全身面部ヲ除キ数十顆ノ小疱ヲ顕點シ起居飲食常ノ如シ其経過順序ナク既ニ痴ヲ結ヒシモノヲ見ルモ無数ノ細疹全ク脂ヲ含マス但シ所謂エリテーマ疹ニシテ決シテ天然痘ニ非サルモノト診断ス 右御届仕候也

 

 赤痢病患者報告書

 

                                 胆振国室蘭郡幕西町農業

 

                                 高木作太郎次男 髙木仁吉

 

                                         四年十月

 

 一、発病 八月十二日午前四時

 

 一、初診 八月十三日午后八時

 

 

 

 備考

 

 一、原因 伝染セルモノカ

 

 一、現況 肚腹絞痛下痢頻數糞ヲ交ル粘滑物ヲ泄シ発熱甚シ

 

 明治十六年八月十四日午前十一時

 

                                  公立室蘭病院 赤城信一

 

 

 

 明治十六〔一八八三〕年(一月―六月)の病院状況は、入院四十五人、外来一千三十四人、収入、支出とも七百七十年〔「円」か〕強であった。

 

 

 

 

十、キリスト教と佐々城本支の事

 

 

 赤城信一は明治十九〔一八八六〕年六月四日公立病院長を免ぜられる。同時に同年十二月十六日、押川方義からキリスト教の洗礼を受ける。

 

 赤城が入信した日本基督教会〔現日本キリスト教会〕は、カルヴァン主義の長老教会で、北海道には明治十四〔一八八一〕年から伝道が始まっている。

 

 押川方義は、室蘭郡長で元伊達家家老田村顕允に洗礼を施し、田村もまた「開拓地の自治は宗教を中心とせねば人心を治めて良い政治は出来ない」との信条に立って、赤城信一をはじめ多くの人々にキリスト教入信をすすめた。

 

 しかし、赤城の入信と布教活動は当然ながら仏教徒その他の反発を生じ、明治十八〔一八八五〕年には病院長排斥運動が起り、赤城は結局失職、後任病院長島田操(キリスト者)も排斥されるにいたる。(伊達田村家所蔵 密告文書)

 

 

 

 この為赤城信一は、明治二十〔一八八七〕年に伊達に転出する。

 

 この後に赤城信一は、室蘭教会、伊達教会、札幌教会〔現札幌北一条教会〕において何れも長老として活躍し、自宅を開放して布教活動に協力したほか、「北海孤児院」にも多額の寄附をしている。

 

 さて、佐々城本支とは、彼は仙台藩医佐々城正庵の四男で、同じ藩医伊東友順の養子となり、友順の娘と結婚、伊東友賢と改名した。

 

 戊辰の役には、仙台藩から脱走して星恂太郎の額兵隊と共に函館戦争を戦い、更に赤城信一と髙竜寺分院を守って、負傷した事は前述の通りである。

 

 伊東友賢は、明治五〔一八七二〕年横浜の基督公会で、米人宣教師パラー〔註 バラ〕から洗礼を受け、星豊寿と再婚し、明治十九〔一八八六〕年に実家の佐々城氏に復籍して佐々城本支と改名する。

 

 本支と豊寿との娘佐々城信子は、国木田独歩との結婚や、有嶋武郎の『或る女』のヒロイン早月葉子のモデルとして知られる。

 

 この戦友でもありキリスト教同信の友でもある佐々城本支に、明治二十一〔一八八八〕年赤城名義の室蘭区大字絵鞆村番外地などの三筆の土地を、五百五十円をもって売却している。

 

 更に、明治二十六〔一八九三〕年には本支以下一家の戸籍を、信一から購入した北海道室蘭に一時移し、同じ四月には、豊寿は本支の母と三人の娘を連れて北海道に渡り、一時室蘭に住んだが、「近傍の人気悪しきを厭い」、伊達に移り、更に札幌に転住する。(黒光とキリスト教 宇津恭子)

 

 

 

 

十一、北海道医事講談会

 

 

 赤城信一は明治二十二〔一八八九〕年四月札幌に移り、当初南四条西四丁目に住んだ。この後の記録は主として北海道医事講談会雑誌による。

 

 医事講談会は、明治二十一〔一八八八〕年十二月二十日に創立総会を開き、会長屋代善夫、副会長撫養円太郎を決定し、二十二〔一八八九〕年一月には月報第一号が発刊される。この医事講談会月報(のち同雑誌)は、本道における医学雑誌の始まりと考えるが、以下信一の関連記事を拾う。

 

 

 

 ◇第五号(明治二十二〔一八八九〕年六月、以下二十二・六と略記)

 

  新入会者 赤城信一。

 

 ◇第二十五号(二十四〔一八九一〕・二)

 

  例会において演説「偶感 赤城信一」

 

 ◇第二十八号(二十四〔一八九一〕・五)

 

  赤城信一評議員に 転居南三条西三丁目。

 

 ◇第三十号(二十四〔一八九一〕・九)

 

  赤城信一幹事に選任、会計担当。

 

 ◇第三十二号、三十三号

 

  何れも例会を赤城宅で開いたとの記事。

 

 ◇第三十八号(二十五〔一八九二〕・九)

 

  副会頭に選任。

 

 ◇第四十号(二十五〔一八九二〕・十二)

 

  札幌衛生会講話「井戸の話」赤城信一。

 

 ◇第四十一号(二十六〔一八九三〕・一)

 

  漢詩を掲載

 

 ◇第四十二号(二十六〔一八九三〕・二)

 

  歇斯的里患者ノ一例 在札幌 赤城信一

 

  三十三歳婦人の該症について、既住病症、現症を記述し、抱水格魯刺児、塩酸規尼涅、臭素加里の投与、

 

  塩莫非、塩酸ピロカルピンの注射を行っている。

 

  関場不二彦の助言が附されている。

 

 ◇第四十六号(二十六〔一八九三〕・八)

 

  副会頭を退き、幹事となる。

 

 ◇第四十八号(二十六〔一八九三〕・十一)

 

  本会記事 会員赤城信一氏

 

  本会幹事ニシテ兼テ月報編輯者ナル同氏ニハ今度後志国余市郡ポン然別鉱山〔大江鉱山 大江然別鉱山 

 

  仁木町にあった小規模な鉱山 金・銀・鉛・銅を産出した〕ノ医員トナラレ去ル九日当地出発任地二赴

 

  カレタリ同氏ハ本会ニ対シ極メテ熱心ニシテ月報編輯ニ関シテハ殊ニ努力ヲ惜マス励勉怠ラサリシカ今

 

  遠ク去テ歸札ノ時何レノ日ナルヤヲ知ラス惜ム可キノ至リニコソ

 

 ◇第四十九号〔二十六〔一八九三〕・十二〕

 

  広告

 

  医者流行ラス生計困難ニ付単身行脚ト出掛ケ左ノ所ニ駐錫ス

 

                            余市郡ポン然別鉱山 赤城信一

 

 

 

 

十二、漢詩と晩年

 

 

 赤城信一は漢詩をよくし、多数の詩作を残したとされるが多くは散逸し、関場不二彦の紹介文による他はない。

 

 

 

 君が詩篇ハ眞率ニシテ、彫琢ヲ假ラザルモ自然ニ佳ナリ之ヲ天籟ト曰フモ不可ナルナシ間ニ小瑕疵ナキ能ハザルモ意ノ赴キ志ノユク所明ラカニシテ些ノ芥蒂ヲ見ズ小橋遺稿分テ三小冊タリ一ハ初稿ニシテ文久年間ノ作ナリ二ハ底蘇稿ニシテ明治戊辰乱前後ノ作ニ係リ三ハ蘭湾餘稿ニシテ室蘭寓居中ノ作トナス

 

 

 

 以上の如くであるが、紙面の関係で底蘇稿から碧血碑のみを示す。

 

 

 

 碧血碑

 

 弾竭兵疲勢亦窮 誓将一死表精忠

 

 吾来憑吊感何耐 碧血碑寒白雪中

 

 

 

 生計困難として札幌を去り、明治二十六〔一八九三〕年から二年余を過したポン然別鉱山は何処か。昭和五十二〔一九七七〕年地図をたよりに調査に赴いたが、当時は北進鉱業大江鉱業所で余市郡仁木町然別三百六十六、古くは金山で、調査時には銅、鉛、亜鉛、マンガン等を採鉱しているとの事であった。当然の事ながら赤城信一について知っている人も居なかった。

 

 蛇足ながらポンはアイヌ語で小さなを意味し、地図によっては小然別鉱山と記載されている。

 

 

 

 

十三、赤城の死と墓地

 

 

 赤城信一は明治二十九〔一八九六〕年二月一日、五十七歳をもって札幌で死去しているが、関連記事及び長男赤城麟の名による謝辞が講談会雑誌七十二号(二十九〔一八九六〕・二)に掲載されている。

 

 

 

 赤城信一君

 

 同君ハ往年本会副会頭トシテ或ハ編輯人トシテ種々尽力セラレ曩ニ余市郡ポン然別鉱山ニ赴カレシカ病気療養ノタメ来札中ノ処薬石効ナク遂ニ本月一日長眠セラレタリト哀惜ノ至ニ堪ヘス嗚呼

 

 右ニ付本会ヨリ左ノ弔詞ニ生花一対ヲ添テ贈与セラレタリト

 

 弔詞

 

 故北海道医事講談会会員赤城信一氏ハ生前医事講談会ニ於テ一ト方ナラス力ヲ尽サレ殊ニ平素医風ノ曰ニ振ハサルヲ嘆キ其興起ヲ謀ラレシガ今痼疾ノ為ニ溘焉永眠セラレ吾人ガ痛嘆ニ堪エザル所ナリ爰ニ謹ンテ哀惜ノ意ヲ表ス

 

 明治二十九〔一八九六〕年二月三日 会頭 伊東隼三

 

 赤城麟氏ハ故信一氏ノ令嫡ナリ今左ノ謝状ヲ本会ニ送ラレタリ

 

 拜啓父信一儀葬式ノ際ハ御丁重ナル弔詞並ニ生花御寄進被成下難有奉謝候乍悼会員諸君へ厚ク御礼願度不取敢以愚書御礼申上候

 

 明治二十九〔一八九六〕年二月六日

 

 北海道医事講談会御中

 

 

 

 赤城麟はキリスト者で、カルルス温泉開基の日野家とも親交があり、明治三十一〔一八九八〕年十月十四日幌別村にて死亡、墓は幌別の来馬墓地に片倉一族の墓と並んで建てられている。

 

 赤城信一の墓は、当初豊平墓地にあり、荒れはて、正面に赤城信一の墓、左側面に妻きさ子大正元〔一九一二〕年十二月三日永眠行年七十四歳、裏面に大きく明治二十九〔一八九六〕年二月一日永眠と刻まれている。しかしながら、あれだけ熱心であったキリスト者を示すものは認められなかった。

 

 札幌の鈴木孝二先生(東大昭和五〔一九三〇〕年卒・昭和六十三〔一九八八〕年死去)は、先祖が片倉家家臣であった縁で、昭和五十〔一九七五〕年平和の滝霊園に片倉家墓地を造成され、こゝに赤城信一の墓碑を合祀した。さらに黒御影石の立派な顕彰碑を建立し、片倉、赤城の業績を明示しておられる。

 

 

 

 

十四、おわりに

 

 

 厖大な資料の中から抽出して記述を行ったため、時に前後の脈略を欠き趣意不明となったかと案じており、更に一部略表示したほか参考文献を省略したことをお詫びする。

 

 

 

 

 

 赤城信一年表抄

 

 

 

  天保十〔一八四〇〕年六月二十五日

 

    阿部昌信の三男として出生 赤城家養子

 

  安政五〔一八五九〕年

 

    江戸遊学コレラ治療 伊東貫斎に学ぶ

 

  文久二〔一八六二〕年

 

    広瀬きさと結婚

 

  明治元〔一八六八〕年一月

 

    鳥羽伏見の戦に医官として従軍

 

  明治元〔一八六八〕年

 

    松本良順に従い、医官として会津で戦う

 

  明治元〔一八六八〕年九月

 

    榎本武揚の艦隊に投じ、長鯨艦乗組

 

  同年十二月十四日

 

    榎本軍北海道平定 信一箱館病院勤務 この後箱館病院長髙松凌雲 信一髙竜寺分院

 

  明治二〔一八六九〕年五月十一日

 

    髙竜寺分院襲われ 信一負傷捕縛

 

  明治三〔一八七〇〕年三月

 

    幽囚を解かれ歸藩

 

  明治四〔一八七一〕年

 

    東京に出、髙松凌雲方へ同居

 

  明治五〔一八七二〕年二月二十二日

 

    開拓使御用掛 月奉五十両

 

  明治六〔一八七三〕年十二月四日

 

    十一等出仕 室蘭在勤

 

  明治十一〔一八七八〕年四月二十六日

 

    医術開業免状交付

 

  明治十九〔一八八六〕年六月

 

    公立室蘭病院長を免ぜらる

 

  同年十二月六日

 

    押川方義によりキリスト教洗礼を受く

 

  明治二十二〔一八八九〕年四月

 

    札幌区南四条西四丁目に転居

 

  明治二十四〔一八九一〕年九月

 

    医事講談会副会頭 同会誌編輯人

 

  明治二十六〔一八九三〕年八月

 

    ポン然別鉱山に転出

 

  明治二十九〔一八九六〕年二月一日

 

    札幌にて死亡 享年五十七歳

 

(故上田智夫氏の遺族の許諾を得て掲載)

 

 


 

 赤城信一抄

 

 

 公立室蘭病院(市立病院)の初代院長で、波瀾万丈の一生を送ったが、あまり知られていないので簡単に紹介したい。

 天保十〔一八三九〕年、会津に生まれ医師の赤城家に養子に入り、江戸、会津などで医学を学んだ。時あたかも幕末、藩命により京都に上がった。砲兵隊付医官として鳥羽、伏見の戦いに従軍し敗れて故郷に戻る。官軍の東北征討に義憤を感じたのか、北海道に走った榎本武揚楊艦隊の長鯨艦に乗り、鷲木村(森)に上陸して、箱館に入る。箱館を平定した旧幕軍は、箱館病院長に有名な高松凌雲を任命し、赤城は高龍寺の分院をまかされる。次いで起こった己巳の役(きしの役、箱館戦争)で高松凌雲は日本人として初めて赤十字精神を発揮、戦傷病者を敵味方の区別なく治療する。官軍の病院接収に際して薩摩軍の将との間に紳士協定も成立し、箱館病院では流血のいたましさはなかった。だが、高龍寺においては、報復の念に燃えた松前藩兵によって、傷病者は切られ、赤城は捕縛されて久留米に送られた。

 苦しい幽囚生活ののち、無禄の彼を温かく迎え入れたのは、かつての戦いの相手であり、すでに榎本、大鳥、沢などを迎え入れていた北海道開拓使の黒田次官であった。

 

 赤城信一が室蘭に着任したのは、明治六〔一八七三〕年の十二月のことである。このころ当地では、トキカラモイ(海岸町付近)が新室蘭と命名され、札幌―室蘭間の札幌本道も全区間が開通、新室蘭には、役場、病院、宿舎、灯台などが次々に建ち始めた。彼が名目上の医員の辞令を受けたのは明治十五〔一八八二〕年であるが、それまでにも当然医療に腕を振るったと思われる。しかし、医師としての業績は記録にない。

 彼は漢詩をよくし、室蘭在住中に「蘭湾餘稿」なる詩集を残し、当時の文化人としては抜群であった事がわかっているほか、運命的なキリスト教との出会いがここで起こる。

 すでに前年、室蘭郡長田村顕允を改宗させている東北学院長押川方義が、明治二十〔一八八七〕年赤城にも洗礼を授けた。赤城はその後、自宅を伝道所として開放したほか、室蘭、伊達、札幌で教会の長老となっている。彼が室蘭病院長の職を失ったことは、新しい医術が要求されてきたという点以外に、彼の宗教とも無関係でなかったような気がする。なぜなら、彼のあとを継いだ二代院長島田操もクリスチャンであり、密告文書によって職を失うのである。病院長を退職した赤城信一は、明治二十〔一八八七〕年十二月伊達で開業し、ついで札幌に移る。

 

 室蘭病院長の職を失い、伊達で短期間開業した赤城信一は明治二十四〔一八九一〕年に、ようやく開拓が緒についた札幌に出て南三条西三丁目で開業した。同時に北海道医事講談会(現在の北海道医師会にも当たろうか)の副会頭兼雑誌編集人となっている。あり余る文才にも恵まれながら、自ら不羈(ふき)というごとく世人にいれられず、明治二十六〔一八九三〕年には「医者流行ラス生計困難ニ付単身行脚ト出掛ケ左ノ所ニ駐錫ス」として小然別鉱山に赴き、やがて病に倒れ、明治二十九〔一八九六〕年札幌で死亡した。五十七歳であった。

 彼の娘竹子は、室蘭在任時代に幌別の開拓者白石藩主片倉景光に嫁し、夫を助けてキリスト教の信仰に生き、「身にぼろを着ても心にぼろを着るな」と励まして、開拓民の心の支えとなったと言う。

 住時茫茫(ぼうぼう)、波瀾(はらん)万丈であった赤城の一生もいまは知る人とて少ない。ただ、札幌の開業医で鈴木孝二さんという方がおられる。先々代は、刈田神社に名を留めている幌別の入植者で、のちに札幌に移った白石藩の人。この方が旧藩主に嫁した娘の親というだけで、片倉家の血縁の方とともに、赤城信一の墓を守り、その改修、墓参を行ってきたという。永く不明であった信一の墓は、札幌の豊平墓地にあった。

 

(故上田智夫氏の遺族の許諾を得て掲載)

 


 

船山馨『蘆火野』(朝日新聞社、1973年)に登場する

赤城信一

 

 

 物語は明治維新前後の箱館からはじまりフランスで終わる。主人公は戊辰戦争、箱館戦争、フランスでの普仏戦争、パリ・コミューンの嵐に巻き込まれ、市井の人々が戦争に巻き込まれる虚しさが描かれている。戊辰戦争とパリ・コミューンとが重ね合わされ、かたや市民不在の戦争、かたや市民による自治政府の樹立が対比されている。新島襄、高松凌雲、武田斐三郎、土方歳三、榎本武揚、大鳥圭介、ブリュネなど、歴史上の人物が数多く登場する。

 

 場面は、箱館戦争での医療活動の場面。

 高松凌雲率いる蝦夷政府軍の医者たちは敵味方関係なく治療にあたったことが書かれている。

 

 

266

 高龍寺へ着いてみると、おゆきは病棟に充てられた本堂で伊東友賢、深瀬鴻堂、赤城信一ら醫師たちの指示に応じて、いかにも小気味のいい敏捷な身ごなしで目まぐるしく動きまわっていたが、……

 

 

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「病院です。御存知でしょう、大黒町の高龍寺ですよ」

「いくさはどう……

萱沼は呻いた。

「いくさのことなんざお忘れなさい。たいした怪我じゃありません。醫者もいるし、おゆきもついています。お気をしっかり持ってくださいよ」

 準之助は声を励ましたが、それが萱沼の耳にとどいているのかどうか、彼にはわからなかった。

 友賢がおゆきとやってきて、すぐ脈をとったが、萱沼は

 「どうなんです、先生」

 「まだ、なんとも言えないな……

 友賢がそういったときであった。突然、地軸をゆるがすような轟音があたりを包み、おゆきは思わず悲鳴をあげて、持っていた薬盆をとり落とした。それは凄まじい地響きとともに、たてつづけに周囲に炸裂し、床や壁が振動した。

 「艦砲射撃だ!」

 「敵が港へ来たぞ!」

 庫裡も本堂も、寺全体が騒然となった。

 「諸君、騒いではならん。落ちつくのだ」

 仁王立ちになった友賢が、両手をあげて大声で制した。本堂でも赤城信一や木下晦蔵らの醫師が声をからしているようであった。

 「兵備のない町なかを砲撃はせん。官軍は弁天砲台を攻撃しているのだ。ここは大丈夫だから、落ついてじっとしていなさい」

 友賢がまた声を張った。

 「心配するな、おゆき。おいらがついている」

 準之助はおゆきを抱きしめた。彼女の体は瘧(おこり)のように慄(おのの)えていた。

 この朝、官軍の総攻撃に参加して箱館港に侵入したのは、甲鉄、春日、朝陽、丁卯の四鑑であったが、ほかに陽春鑑が箱館の背面大森浜にまわって、前後から同時に町を挟撃したので、町は大混乱に陥った。

 

吉村昭『夜明けの雷鳴』(文藝春秋、2000年)に登場する

赤城信一

 

 

 

 137~138頁

 兄が隊長をしている衝鋒隊づきの赤城信一という医師が、箱館病院に凌雲を訪ねてきた。

 赤城は、五稜郭を出撃した衝鋒隊員とともに福山城に入り、衝鋒隊主力が土方歳三指揮の諸隊とともに江差に進撃した後、福山にとどまって負傷者を箱館病院に後送することにつとめた。江差に松前藩の兵の姿はなく、さらに熊石村に進んだ衝鋒隊は、松前藩兵の降伏に立会い、十二月十四日に五稜郭に帰還し、赤城も退院とともに帰城した。

 赤城は、兄佐久左衛門から凌雲宛の手紙を持っていた。

 凌雲は、文字を眼で追った。

 赤城は会津の町医で、会津藩砲兵隊つきの医師として鳥羽・伏見の戦いに従軍し、敗れて江戸にのがれ、さらに会津にもどった。やがて、官軍の会津藩攻めが開始され、かれは、会津藩に加わった西洋医学所頭取松本良順のもとで負傷者の治療につとめた。漢方医である赤城は、松本の西洋医学にもとづく手術をはじめとした治療法に驚嘆した。

 その後、松本が会津からさり、赤城は傷病兵約三十名を米沢に移送せよという藩よりの命令を受け、米沢藩との国境に行った。しかし、米沢藩はすでに官軍に降伏していて入国をゆるさず、同じように米沢に入ろうとしていた衝鋒隊と大島圭介指揮の伝習隊も足どめを食っていた。赤城は、そのまま衝鋒隊にぞくして福島から仙台に入り、連れてきた負傷者たちの世話を仙台藩側に頼み、自らは衝鋒隊員とともに榎本艦隊の「長鯨」に乗ったという。

 佐久左衛門は書簡の中で、赤城の治療法が松本良順の教えを受けただけに他の医師とは異なった西洋流で、人間的にも十分信頼のおける人物だ、と賞讃していた。佐久左衛門が弟の凌雲の経歴を口にすると、赤城はフランス医学を修得した凌雲のもとで働きたいと言い、箱館病院としてもかれを専属医師とするのは好ましいと考えたので、推挙する、と結ばれていた。

 

 

254頁

 その月の下旬、凌雲のもとに箱館病院の医院であった赤城信一が訪れてきた。かれは赦免後、会津にもどったが、北海道に設置された開拓使の御用掛に内定し、出京してきたのである。

 凌雲は、かれの無事を喜び、家に寄食するようすすめた。赤城はその日から、凌雲を助けて診療にあたり、往診に同行することもあった。

 二月二十日、赤城は正装して開拓使東京出張所におもむき、御用掛の辞令を受けた。月給五十円で、札幌詰を命じられた。

 凌雲は、久に赤飯を炊かせて祝い、赤城は札幌に向かって去った。

 

 

 



 

室蘭教会 歴史余話

 

 船山馨『蘆火野』は明治維新前後の箱館からはじまりフランスで終わる。主人公は戊辰戦争、箱館戦争、フランスでの普仏戦争、パリ・コミューンの嵐に巻き込まれ、市井の人々が戦争に巻き込まれる虚しさが描かれている。戊辰戦争とパリ・コミューンとが重ね合わされ、かたや市民不在の戦争、かたや市民による自治政府の樹立が対比されている。新島襄、高松凌雲、武田斐三郎、土方歳三、榎本武揚、大鳥圭介、ブリュネなど、歴史上の人物が数多く登場する。この小説に、箱館戦争での医療活動の場面で高松凌雲率いる蝦夷政府軍の医者たちは敵味方関係なく治療にあたったことが書かれている。

 吉村昭『夜明けの雷鳴』は高松凌雲の生涯を描く歴史小説だが、ここに箱館戦争時の、敵味方の区別なく傷病者の治療にあたった医師たちが登場する。

 この両書に登場する赤城信一(あかぎしんいち)(18391896年)は、室蘭教会の創立にかかわった会津藩出身の医師である。彼は榎本武揚たちの蝦夷政府軍(旧幕府軍)に参加し、医師高松凌雲(日本人として初めて赤十字精神のもと、戦傷者を敵味方の区別なく治療)のもとで、伊東友賢(佐々城本支、18431901年)と箱館病院で軍医として働いた。榎本軍が降伏した後、開拓使に出仕、官立室蘭病院長となった(1873[明治6]年12月)。のちに伊達教会の礎となる室蘭郡長田村顕允(たむらあきみつ)(仙台藩亘理伊達家家老)が 1886[明治19]年夏、福音伝道のために日本基督教会牧師押川方義(東北学院・宮城学院創立者)を室蘭に招いた。赤城は三回に亘る伝道集会をとおして信仰を得、押川から洗礼を受けた。彼は自宅(現・海岸町3丁目、官立室蘭病院、室蘭郡役所の直近)を伝道所(集会所)として開放し、室蘭教会の基礎を築き福音伝道のために尽力したのである。後に室蘭から伊達に移り、伊達教会において長老、そして札幌北一条教会の創立にも関わった。

 先の伊東友賢(いとうゆうけん)は、赤城信一の生涯の友人であった。赤城はこの佐々城との交わりによって信仰を得たのである。伊東は1872年にオランダ改革派宣教師JH・バラから洗礼を受けたキリスト者である(横浜海岸教会員)。伊東友順の養子となったが後に佐々城家に復籍し佐々城本支(ささきもとえ)と改名(同郷仙台出身のキリスト者星豊寿[佐々城豊寿]と再婚)。佐々城は、田村や赤城たちの計画する伊達教会会堂建築が資金に不足している窮状を知り、援助のために赤城所有の絵鞆(えとも)の土地を購入してその伝道を助けた。

 このように室蘭教会と伊達教会は田村と赤城が植え水を注いだ、きょうだい教会である(18867月室蘭伝道開始、同年12月伊達伝道開始)。

 また本支の妻佐々城豊寿は矯風会を立ち上げた一人で(矯風会の命名者ともいわれる)、会頭矢嶋楫子とともに書記として日本婦人運動のために尽くした先駆者である。豊寿は「北海道の女子教育」を志し、長女信子ほか子女を伴い、1893[明治26]年に室蘭に移住(住居を定めず、まもなく田村顕允(たむらあきみつ)の世話で伊達に移住)。しかし、様々な迫害にも遭い北海道での女子教育を断念し帰京する。

 娘の佐々城信子(ささきのぶこ)は伊達教会で日曜学校教師をして教会に仕えた。1896年、国木田独歩の妻となるが貧困に耐えかねて5か月で離婚。有島武郎の『或る女』のモデルとされた女性である(有島本人がモデルと騒がれているがごく輪郭だけで事実ではないと述べている)。離婚した国木田独歩との子を宿した信子は、豊寿と二人の妹と共に再度伊達に転居するが、間もなく室蘭に転居した。熱心なキリスト教徒であったから室蘭教会の礼拝に母子共に出席していたであろう。

 室蘭教会創立の礎となった赤城信一の子孫は信仰を継承している。池田教会員菱田千佳(ひしだちか)姉、菱田摩耶(ひしだまや)姉親娘である。摩耶姉は作曲家として活躍、池田教会の教会建設90周年を記念する池田教会讃美歌「キリスト讃歌」(作詞西村ひかり、作曲菱田摩耶)を制作し、さらに室蘭教会のために、同一歌詞で別バージョンの室蘭教会讃美歌「キリスト讃歌」を作曲した。室蘭教会では伝道開始、教会建設月である7月の主日礼拝において毎年「キリスト讃歌」によって讃美している。

 室蘭市はお雇い外国人の一人で、北海道開拓顧問兼御雇教師頭取のホーレス・ケプロンによって「室蘭の港は天然の良港であるから札幌と室蘭を道路で繫ぐことがまずもっとも必要」であるとの進言によってひらかれた(札幌農学校開学も進言)。本年開港150年を迎えた。産炭地からの石炭を積み出し発展し、鉄の街として有名である。1886年、一人のキリスト者もいなかった室蘭の地に、主なる神は田村を、押川を送り、福音の種を蒔いてくださった。赤城をはじめ、日野愛憙(郡役所書記、登別カルルス温泉発見者)、島田操(赤城の後任病院長、のち札幌北一条教会長老)、片倉景光(旧白石城主、妻は赤城の長女竹子)、斎藤良知(郡役所書記、片倉氏の家臣)、萱場義造(伊達氏の家臣)、須田市十郎(開拓使顧問ケプロンから農業指導を受けた)など三十余名が信仰者となった。