パイプオルガンと森有正


 

 

森有正

「思索の源泉としての音楽」(PHILIPS)から

 

 あの暗かった満州事変から支那事変を経て、太平洋戦争の終末に到る数年間、言いようのないつらい日日の間、私はバッハと共にあった。戦争になる直前、丸善からドイツに註文してとり寄せたペテルス版のバッハのオルガン全集は、戦争の期間を通じて、私の最も尊い伴侶でもあった。雨の日も風の日も、明治学院、青山学院、立教大学の礼拝堂のペダル・オルガンやパイプオルガン転々として、レメンスやバッハを奏いた。また戦争末期には、家族が信州に疎開したので、ひとり勤め先の東大近くのYMCAに住み、同宿の、今は文化財調査官をしている吉川需君と、ペダルの部とマヌエルの部とを分けあって、舎内の大型のオルガンでバッハの曲をたくさん奏いた。こうして、バッハは私の生活にほとんどなくてはならないものになってしまった。

 

 

 

 

森有正

「バッハをめぐって」(1974924―27日 NHKテレビ「女性手帳」)(PHILIPS)から

 

 はじめピアノをやっていましてね、……ピアノの練習曲のなかに、時々バッハのやさしい曲が出てまいりますね。それがあるとき、ある組曲のなかの一部が出てきまして、あればブレだったかジークだったか忘れましたけれども、それが非常に美しい、殊に、その転調が非常に美しくってですね、そこに実に人間の感情が転調によって、いわゆる変貌して現れてくる、そういう美しさ、これはほとんどほかの作曲家の作曲ではしられないような、一種の転調の美しさっていうのがありました。それと同時に、これはあとでわかったことですけれども一種の対位法的な、あればだいたい二部の曲ですけれども、ソプラノとバスとですね、この二つが実に美しい対位法的な結びつきかたをしています。これは、小学校の子どもですから、もうほとんど無意識にそれを聴いていたんですけれども、こういう立派な音楽のもっと難しい曲を将来奏きたいものだと思って、それで私にピアノを教えていた母に聞きましたら、これはバッハという人で、一番いい曲はオルガンにあるんだということを聞きましてね、それで私、中学に入ったあとで、オルガンに楽器を変えたんです。それが私のオルガンのはじめです。

 

 

 

高橋たか子

「森有正との出会い」から

 

 ……私はふいに森有正という人に会って話をしたいと思い立った……

 

パリまで森有正に会いに行ってパイプ・オルガンのことを話し合いたいという、それだけの目的であった。できれば御自宅にあるとかいうパイプ・オルガンを弾いて聴かせてほしいと思った。……

 

私が森有正に会いに行こうと思い立った理由は、……テレビでバッハのことを話していられるのを聞いたからである。……その話のなかで私を惹いたことの一つは次のようなことである。――自分は小学校の時からピアノを習っていて、小学校の二年の頃に或る曲をあたえられ、弾いてみると、それはこれまで決して聴いたことのないような、いいようもなくいい曲であった。いったい何の曲なのかと母に訊ねると、バッハだと教えられた。それ以来、バッハを弾き続けることになった……云々。

 

……この話を私に忘れがたくさせたものは、小学校低学年でバッハをいいようもなくいいと感じたというような人の、宗教的感受性なのである。……

 

バッハとこういう出会いかたをした人は、本質的に私と似たところのある人だろうと思い、殊にパイプ・オルガンを偏愛する私は、パイプ・オルガンでバッハを弾き続けていられる森有正のなかに、宗教的感受性における同類を感じたのであった。

 

 

 

辻井喬「森有正のヨーロッパ」から

 

 僕は森有正に誘われて、教会で彼が弾くバッハのオルガン曲を聴きにいった。

 

 ノートルダム寺院のような大きな寺院ではなかった。僕は礼拝者の一番前列の固い木の長椅子に掛け、少し高い所にある演奏者の席に陣取っている森有正を、仰ぎ見る角度で話した。彼は弾きかけては感想を呟くように口にし、次第に熱を帯びて大きな声になったかと思うと、急に向きを変えて演奏をはじめるという動作を繰り返した。午後の光がわずかにステンドグラスを透かして床に落ちていた。それはいくつものコラールだった。

 

 「僕にとって音楽は、ことにバッハの音楽は経験なんだ。その純粋さにおいては人生を定義する経験なんだ」

 

 そういった意味のことを彼は何回か力をこめて口にした。正確に覚えている自信はないが、彼の情熱は伝わってきた。部分部分の残響時間は長いのに、石造りの高いアーチに響くので清澄に籠るオルガンの音によって、彼が僕に伝えようとしているのは、日本の多くの学者が思い違いをしている感性と思想の関係について、暮らしている感性の中から生まれた思想でなければ、それは知識に過ぎないんで、ということのように思われた。そのためには、ヨーロッパにいなければ駄目なんだ、とオルガンの演奏キイに向かいながら彼は叫んでいるのであり、その後に、だからいくら渡辺一夫さんに好意的な声をかけられても帰国できないという説明が続いているのかもしれなかった。

 

 

 

伊藤勝彦「森有正との出会いと別れ」から

 

 一九七〇年の八月十五日にぼくは北海道大学文学部主催の森有正先生の講演会を企画した。「思想と生きること」という題名で話されることになっていた。森先生は早くも七月末に札幌に来られ、クラーク会館の宿所に長く滞在された。毎朝四時間、クラーク会館のパイプ・オルガンで練習なさっていた。先生の依頼で、バッハのオルガン曲の演奏を学生たちに手伝ってもらって、録音することになった。クラーク会館においてだけでなく、北星学園やルーテル教会の中にあるパイプ・オルガンによる演奏も録音した。

 

 森先生は七月末ごろ札幌に来られ、北大構内にあるクラーク会館に約一か月滞在された。当時ぼくは北大文学部哲学科の助教授で、翌年には東京に帰ることになっていたのでこれが最後のチャンスであったのである。森先生の友人である吉田秀和がかつて森先生のバッハ演奏をシュヴァイツァーのそれと比較して論じていたことがあった。たしかに、ゆったりとしたテンポで深く沈潜していくような演奏という点では、共通するものがあった。クラーク会館にはドイツ製のパイプ・オルガンがあり、札幌滞在中はほとんど毎朝、八時頃から四時間ぐらいオルガンの練習をされた。今、ぼくの手許には、三十年近く前に北大の学生に手伝わせて録音したテープがある「人よ汝の大いなる罪を嘆け」、「汚れなき神の小羊よ」、「来たれ異教徒の救い主よ」、「われらみな唯一の神を信ず」などのバッハのコラール曲である。今ではフィリップス社から「思想の経験としての音楽」という題で、二枚のCDとして発売されている。